こじらせ系主婦奔走中

日々をまったり綴る元バンギャルの黒歴史手帳

明日は父の日。そして私の父の十三回忌。
もうあれからそんなに経ったのか…と、しみじみ。


あの日、父が死んだとカナダのホームステイ先へ向かうバスの中で告げられた時のことを今でも鮮明に覚えてる。頭を拳銃で撃ち抜かれたような衝撃。

1人でカナダから飛行機で帰って、人生最初で最後であろうファーストクラスに乗って、その便の最前に松岡修造がいて、どこか上の空で機内サービスを満喫した。あんな肉のうまい機内食後にも先にもねぇ。


空港に着いて、母の友達に葬儀場まで車で送ってもらってる間、「びっくりしたね、急だったね、つらいね…」なんて言われたけど、私はまだ父が死んだところを見ていなかったから何かの冗談なのかもしれないと心の奥底でぼんやり考えてた。
葬儀場に着いて、見たことのない顔をして憔悴している母と、冷たくなって棺桶で目をつむっている父を見て、あぁ本当に死んだんだって理解した。


そこまでは覚えてるけどその後のことはまったく覚えてない。記憶がすっぽり抜けてる。
母もどうやって葬式を終えたのか覚えてないらしい。
人はあまりにもショックを受けるとその瞬間の記憶をなくすんだってその時知った。


私はもともと父のことをそんなに好きではなかった。
父はどうだったのか知らないけど、心の中では死ねばいいと思うくらい、うーん、平たく言うと嫌いだった。
酒癖が悪く悪酔いすると母に当たる父。
父は育児にはあまり干渉しなかったので、ほぼ母子家庭状態で育ったから余計に、父との関わり方がわからなかった。
細かいことを書くと本当に長くなるから掻い摘むと、長男だけど長男として振る舞えない自分に苛立ち、それを母のせいにして、酒の力を借りて怒りを爆発させることの多かった父がとにかく嫌いだった。


そんな父が、突然死んだ。
父が死んでからしばらくの間は、長い出張に出ていて未だに帰ってきてないだけのような感覚にも陥ったけど、結局帰ってこなかった。


身内が死ぬと言うのはその後の自分の人生や哲学を大きく動かす。
私は父が死んでから、今までもっていた死という概念が大きく変わって、自分の中で「身近にあるライフイベント」くらいになった。
人ってわりとすぐ死ぬんだなぁ、って。


紆余曲折あったけど、私も母親になり、息子が産まれ、息子にとっての父親、私にとっての夫ができた。
私の母は、私はクズだと思ってた父親のことを死ぬまで(死んでも)愛していると言っていた。
私が今母の立場になり、どう思えるかは別として。
今では死んだ父親の気持ちが、なんとなく理解できんでもないかなぁというところ。
不器用だったんかなぁとか、本当は私らのこと愛してくれてたんかなぁとか。
まぁでもこれは死者である当人にしか正解がわからないから何も言えないけど。
(だから私は死んだ後その人が勝手に解釈されたり過去の行動が賞賛されて美談化する現象が大嫌い。)


ただひとつ言えることは、父がいなかったら私は産まれていないし、もちろん、可愛くて可愛くて仕方ない息子も産まれていなかった。
だから、父には心から「生きさせてくれてありがとう」って言いたい。
それで、私が父と同じようになったとき、「本当はどうだったん?」って一杯やりながら聞いてやりたい。


明日は、そんな気持ちでお父さんと話してこようと思ってる。